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後藤明生:四十歳のオブローモフ【イラストレイテッド版】

後藤明生『四十歳のオブローモフ【イラストレイテッド版】』

巻末解説:荻原魚雷(文筆家)

◉発売日:2020年4月21日

◉ブックデザイン:ミルキィ・イソベ(ステュディオ・パラボリカ)

◉造本:A5判・並製・304頁

◉ISBN978-4-908624-09-4 C0093

◉定価:本体2,400+税

時間に追われる現代人よ怠け者で何が悪い!?

荻原魚雷さん(文筆家)激烈推薦!

四十歳を迎えた小説家・本間宗介は、ロシアの小説『オブローモフ』の主人公のように「怠け者」として生きることを望んでいた。しかし、妻子とともにマンモス団地に暮らす彼に、そのような生活は許されない……。父親として大人として逃げられない数々の日常の「事件」をユーモラスに描いた著者初の長編小説。50年前の連載時に掲載された山野辺進による15点の挿画を再録! 「みんながみんな立派な大人になるわけでもない。そういうことを知っておくのは、心おだやかに齢を重ねていく上で、とても大事なことだ」――荻原魚雷

▶︎オブローモフ【Oblomov】:ロシアの作家ゴンチャロフの長編小説。1859年発表。貴族青年の主人公オブローモフの、才能はあるが無気力で怠惰な余計者の生活を、進歩的な娘オリガとの恋愛を通して描く。以後、オブローモフの名は怠け者の代名詞となった。(以下略)――『大辞林」第三版より

【もくじ】

●四十歳のオブローモフ

 《眠り男》の眼

 マンモス団地の日常

 誕生日の前後

 旅の空

 根無し草

 前厄祓い

 捨て犬

  後記

●解説『大人になりきれない大人のための教養小説』荻原魚雷

【本文抜粋】

 まことに平凡な事実であるが、本間宗介は団地居住者である。東京都心から地下鉄で約一時間の距離にある、世帯数七千といわれるマンモス団地だ。

 そのうち約九十パーセントは、東京へ通勤するサラリーマン世帯であるが、宗介は一日じゅう団地で暮している。3DKの間取りの北向きの四畳半に据えつけた坐机に向って原稿を書くのが、彼の仕事だったからだ。

 一口に原稿といっても、もちろんいろいろある。新聞や雑誌に随筆や書物の批評などを頼まれることもあるが、いま彼が取りかかっている最も大きな仕事は、昨年の夏に出かけたシベリアを舞台にした小説である。彼の希望としては、それを一大長篇に仕上げたいのであるが、果してうまくゆくかどうか、いまのところはまだ、はっきりわからない。勝算と不安が五分五分、というのが現在の彼の胸中のようだ。そのために彼は、焦ら焦らしたり不機嫌になったりすることもあった。

 しかし、だからといって、年じゅう机の前にへばりついているわけではない。本間宗介は、だいたい二月か三月に一度は、旅に出かける。彼は決して、いわゆる旅行好きといったタイプの人間ではない。どちらかといえば、出不精である。時間を守ることがニガ手である。時刻表というものを眺めるのが飯より好き、といった旅行人間とは、およそ正反対の人間である。ときどき彼は、《眠り男》になりたい! と空想することがあった。《眠り男》すなわち、現代の《三年寝太郎》であり《ものぐさ太郎》である。しかし、妻子を抱えた《眠り男》などは到底、考えられない。彼の理想はまた、ロシアの怠け者《オブローモフ》であった。しかし《オブローモフ》は十九世紀の貴族で大地主だ。彼の領地オブローモフカ村は、たぶんこのマンモス団地よりも広大だろう。彼はその村を、農奴三百五十人とともに、遺産として相続したのである。ゴンチャロフの小説『オブローモフ』の主人公は、そういう怠け者だった。したがって、団地住いのオブローモフなどというものは、これもまた到底、考えられない。

 そんなわけで、出不精ではあったが、本間宗介は二月か三月に一度くらい旅に出かけた。雑誌に旅行記を書くことも、彼の仕事の一つだった。

 それから、一月に一度くらいの割合いでテレビに出ている。朝、ちょうどサラリーマンの出勤時間に放送される、一種の社会風俗番組のレポーターであるが、そのため彼の住んでいる団地内では、だいぶ顔をおぼえられたようだ。

 しかし、そのことは果して、喜ばしいことであるかどうか? ある日のこと彼は、妻の正子から次のような注意を受けた。

「寝巻を着たままベランダで煙草を吸わないで下さい」

【お詫びと訂正(正誤表)】

 本書につきまして、下記の訂正がございます。ご迷惑をおかけいたしましたことを深くお詫び申し上げます。

 ▶︎40ページ8〜9行目

 【誤】いやしいというくも日本国家の郵便局

 【正】いやしくも日本国家の郵便

◉後藤明生|ごとう・めいせい(1932年4月4日―1999年8月2日)​

「内向の世代」の作家として知られる後藤明生は、1932年4月4日、朝鮮咸鏡南道永興郡(現在の北朝鮮)に生まれる。13歳で敗戦を迎え、「38度線」を歩いて超えて、福岡県朝倉郡甘木町(現在の朝倉市)に引揚げるが、その間に父と祖母を失う。当時の体験は小説『夢かたり』などに詳しい。旧制福岡県立朝倉中学校に転入後(48年に学制改革で朝倉高等学校に)、硬式野球に熱中するも、海外文学から戦後日本文学までを濫読し「文学」に目覚める。高校卒業後、東京外国語大学ロシア語科を受験するも不合格。浪人時代は『外套』『鼻』などを耽読し「ゴーゴリ病」に罹った。53年、早稲田大学第二文学部ロシア文学科に入学。55年、小説「赤と黒の記憶」が第4回・全国学生小説コンクール入選作として「文藝」11月号に掲載。五七年、福岡の兄の家に居候しながら図書館で『ドストエフスキー全集』などを読み漁る。58年、学生時代の先輩の紹介で博報堂に入社。自信作だった「ドストエフスキーではありません。トリスウィスキーです」というコピーは没に。59年、平凡出版(現在のマガジンハウス)に転職。62年3月、小説「関係」が第1回・文藝賞・中短篇部門佳作として「文藝」復刊号に掲載。67年、小説「人間の病気」が芥川賞候補となり、その後も「S温泉からの報告」「私的生活」「笑い地獄」が同賞の候補となるが、いずれも受賞を逃す。68年3月、平凡出版を退社し執筆活動に専念。73年に書き下ろした長編小説『挾み撃ち』が柄谷行人や蓮實重彥らに高く評価され注目を集める。89年より近畿大学文芸学部の教授(のちに学部長)として後進の指導にあたる。99年8月2日、肺癌のため逝去。享年67。小説の実作者でありながら理論家でもあり、「なぜ小説を書くのか? それは小説を読んだからだ」という理念に基づいた、「読むこと」と「書くこと」は千円札の裏表のように表裏一体であるという「千円札文学論」などを提唱。また、ヘビースモーカーかつ酒豪としても知られ、新宿の文壇バー「風花」の最長滞在記録保持者(一説によると48時間以上)ともいわれ、現在も「後藤明生」の名が記されたウイスキーのボトルがキープされている。

後藤明生:四十歳のオブローモフ【イラストレイテッド版】

¥2,640価格

     

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